現在、伊勢の法泉寺は廃寺となり、その跡地は天啓公園として整備されています。しかし、寺院の伽藍は現在も残されており、本堂内部には爪髪塔が現存しています。爪髪塔は内陣に埋め込まれた形で保存されており、往時の法泉寺の姿を今に伝える貴重な遺構となっています。海住春彌『櫛田川と多気町文芸史』には「梅嶺の墓としては、法泉寺本堂内の奥に、その爪髪が埋められている。その上に篆書で、「開山老和尚爪髪塔」と堀った中国式の暮碑が建っている。高さが九五センチメートルは、横が五八センチメートル、奥行一五センチメートル。悟心(法泉寺六代)の書と伝えられる。」と記されています。

なお、上記3枚の写真につきましては、多気郷土資料館様よりご提供いただきました。貴重な資料をご提供くださった同館に、ここに深く感謝申し上げます。
●沿革
■開創時期
福泉寺の開創については、『明細取調御届ケ』(明治37年〔1904年〕)に「享保三年拾二月四日開山梅嶺和尚創立ス」との記録があります。
また、『大阪府全志』巻之三(大正11〔1922年〕年発行)では、「享保年間曉雲和尚の徒弟萬谷和尚、十方の信施を以て再建し、祖翁梅嶺大和尚を請じて中興の開山とせり。」と記されています。
すなわち、享保3年(1718年)、萬谷和尚が諸国を行脚して再建費用を募り、荒廃していた寺を復興したとされます。そして、自身を開山とせず、既に遷化していた大師匠 梅嶺禅師を「勧請開山」としてお迎えしたということです。
『攝津國本派世代表』により福泉寺の法系をみると、梅嶺禅師が開山、暁雲禅師が2代、萬谷和尚が3代にあたります。萬谷和尚は福泉寺を再興した功績により中興開山と位置付けられています。現在も本堂には、梅嶺禅師と萬谷和尚の位牌が大切にお祀りされています。
また、近隣の黄檗寺院である自敬寺(庵)も同時代の享保元年(1716年)に再興されています。自敬寺の開山である暁雲禅師は、福泉寺の2代住持でもあり、梅嶺禅師の直弟子、そして萬谷和尚の師匠にあたります。暁雲禅師は近江国の正宗寺第5代住職、同国正瑞寺4代住職を務めた高僧であり、『法泉開山梅嶺雪公和尚行業記』を著して梅嶺禅師の事績を後世に伝えました。このように、暁雲禅師と萬谷和尚は師弟として力を合わせ、自敬寺と福泉寺の再興を通じて、この地域における黄檗宗の布教と教化に大きな役割を果たしました。
■寺号「福泉庵」から「福泉寺」へ
創建当初は、「青雲山 福泉庵(ふくせんあん)」という寺号で呼ばれておりました。
その後、昭和に入ってから「宝珠山 福泉寺」へと改称されたと考えられます。
大正期に編纂された『西成郡史』や『大阪府全志』巻之三にも、依然として「福泉庵」の名称が見られます。さらに、明治12年および昭和6年の台帳にも「福泉菴」という表記が残っております。
「福泉寺」という名称が正式に使用されるようになったのは、昭和27(1952)年9月1日に「宗教法人福泉寺の規則」が大阪府より認証された頃までには確定していたと推測されます。
また、明治37年の記録には「本寺摂津国自敬庵末福泉庵」とあり、当時は西三国にあった自敬庵(現在の自敬寺)の末寺であったことがわかります。両寺の住職の法系は、いずれも東林派下に属しています。
■創建当初の所在地
創建時の所在地についても『明細取調御届ケ』に記載があり、「摂津国西成郡神津村大字新在家」とされています。これは、現在の大阪市淀川区新高(にいたか)にあたります。
「摂津国」は、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部に相当します。「西成郡」は、現在の西成区とは異なり、江戸期には大阪平野の西半分から北の神崎川までを含む広い地域を指していました。「神津村」は、明治22(1889)年、今里・堀・木川・三津屋・野中・新在家などの村が合併して成立した行政単位で、「神崎川の『神』」と「中津川(新淀川)の『津』」から名付けられました。現在も「神津小学校」や「神津神社」などにその名が残ります。
その後、大正11(1922)年には「神津町」となり、さらに大正14(1925)年には大阪市に編入され「東淀川区新在家町」へと改称されます。そして現在の「新高町」となりました。
新在家(現新高)は「領主や庄屋を持たず、百姓が統治していた自立的な村だった」と伝える古老もいますが、江戸時代の公文書を確認すると、それは正確ではありません。新在家は江戸初期の『摂津国絵図』(慶長10年)に村名と石高が明記されており、また、代官所に提出された『村高反別帳』には庄屋・年寄・百姓代といった村役人の署名も記録されています。つまり、幕府の代官所により統治されていた一般的な直轄領村であったと考えられます。記録によると宝永5年(1708)間部越前守領地、享保2年(1717)幕領 代官支配、天明8年(1788) 幕領 戸田周防守預所、寛政2年(1790)幕領 松平泉守預所、寛政6年(1794)幕領 代官支配、文化14年(1817)幕領 永井飛騨守預所、天保13年(1842)幕領 代官支配、明治元年(1868)御料 櫻井遠江守九鬼長門守取締とされます。
これらの記録からは、新在家村が江戸時代を通じて幕府の統治機構のもとに置かれた村であったことがうかがえます。また、明治維新後には兵庫裁判所、司農局、摂津県、兵庫県といった機関の所管を経て、最終的に大阪府に所属しました。福泉寺(庵)は、このような歴史を有する新在家の地に創建されました。『明細取調御届ケ』に記された創建当初の所在地は、福泉寺の歴史をたどるうえで重要な史料であり、その出発点を今に伝えるものといえます。
■明治の住職
明治維新後、日本各地では廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波が押し寄せ、多くの寺院が取り潰されたり、無住となって荒廃していきました。そうした逆境の中にあっても、福泉庵(福泉寺)を守り続けた住職が、第10代大橋愍定(みんじょう)和尚です。
愍定和尚は、天保13年(1842)4月11日生まれ。安政元年(1854)4月8日、親寺である自敬寺(庵)の多々良観輪禅師のもとで得度を受け、明治6年(1873)7月5日に福泉庵の住職に任命されました。
多々良観輪禅師は、明治18年より第40代大本山萬福寺住職を務めた高僧であり、その法系は福泉寺と同じ東林派下に属していました。また、自敬寺(庵)や、近江の正瑞寺、正宗寺などの住職も歴任しています。愍定和尚は、観輪禅師が自敬寺(庵)に住していた頃に縁を結び師事し、得度を受けたものと考えられます。
その後、明治23年(1890)4月25日には、『寺籍』などの関係書類を本山に提出しています。
愍定和尚の後は、以下の通り、近隣の黄檗宗寺院の住職方が兼務住職として福泉庵を支えました。杉本亀山和尚(高須より)、梅谷龍海和尚(明治34年〔1902〕より)、浅野眞成和尚(明治45年〔1912〕より)。
特に浅野眞成和尚は、大阪市内(当時の西成郡北野村)に存在した「善通寺」の住職でもあり、その記録は大本山の『寺班・住職表』にも見られます。北野村は福泉庵から比較的近距離にあり、地域的にも往来可能な範囲にあるため、近隣寺院同士による兼務体制の実態をよく示しています。『攝津國本派世代表』によれば、善通寺の16代住職・梅ー通香禅師は、福泉寺の8代住職も務めており、両寺院の間には人的・法系的なつながりが存在していました。善通寺は後に大火により焼失し廃寺となりましたが、現在でも歴代住職や檀信徒の墓石は、自敬寺および服部霊園に整理・安置されています。これにより、寺院としての活動は終えていても、その歴史的連続性は周辺寺院に引き継がれています。さらに、善通寺の開山は木庵禅師の弟子である鉄禅道広禅師です。鉄禅禅師は元禄4年、伊予宇和島藩主伊達宗利公の請願により大通寺(現廃寺)の開山となり、また毛利吉広公の請願により祥龍寺の開山も務めました。その後、元禄10年に善通寺の開山となり、『参禅要語』を著しています。
江戸時代末から明治維新にかけて、明治政府の寺院整理政策や廃仏毀釈の影響により、多くの寺院が存続の危機に立たされました。しかし福泉庵においては、第10代住職大橋愍定和尚による護持、自敬寺・善通寺との師弟関係・法縁・兼務住職体制といった複数の支えによって、寺院の継続が維持されました。その結果、小さな庵であっても、複数の僧侶と寺院の連携によって護持され続けたことが、記録から明らかになります。
■昭和の住職
昭和時代の福泉寺住職の系譜については、黄檗宗務本院に提出された公式書類からたどることができます。
昭和2年(1927)自敬寺の服部承董和尚が兼務住職に就任。昭和18年(1943)鈴鹿高久和尚が住職となるも、第二次世界大戦により戦死。在職はわずか5年に留まりました。
昭和27年(1952)服部祖承和尚が住職に就任。
昭和36年(1961)赤松達明和尚(先代住職)が入寺。特に、鈴鹿和尚が戦争により命を落とされたことは、福泉寺の歴史においても深い傷跡を残しました。
その後、昭和後期には赤松達明和尚が住職として法灯を継がれました。※新資料発見により令和7年加筆
■謎の拝み屋さん 〜貝島浄妙という人物〜
赤松達明和尚の前任住職は、公式には服部祖承和尚と記録されています。しかし、戦中から戦後にかけて、貝島浄妙(かいじま じょうみょう)という老婆が孫とともに本堂に寓居していたという話が、新高の地域に伝わっています。
現在も本堂には彼女の御遺影が残されており、そこには有髪で、真言宗の輪袈裟(三つ巴紋)を首にかけた姿が写されています。黄檗宗本山には僧籍記録がなく、正式な僧侶ではなかったものと推察されますが、地域では「拝み屋さん」として親しまれていたようです。
彼女は弘法大師像を祀り、「大坂新高大師講」なる団体を組織し、地域で活動していたと伝わっています。「超能力が使えた」という逸話も残っており、特に桃の葉を貼っておまじないを施すなどの信仰的行為を行っていたとされます。
赤松和尚の長男さんによれば、「大坂新高大師講」は 実際にはご詠歌の会であり、貝島浄妙さんが亡くなった後もしばらく活動が続き、定期的に練習を重ね、年に一度は高野山のご詠歌大会にも参加していたとのことです。
御遺影の裏には、以下のような紙が貼られています:
清凉院眞室淨妙大姉 昭和三十六年八月没
この方は戦災に会って堺の方からたこの地蔵さんをしよてにげてこられ、村の人がここにすみなさいといってあげた人で、私達はそれを信じて来ました。いつから住んでおられたかは存じません。高須の和尚さんからも何も聞いておりません。孫さんがおられますが、養子に行かれて音信がありません。
この方が実際にどのような人物であったのか、より詳しくご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示いただければと存じます。
■福泉寺再興
現在の福泉寺の伽藍(がらん)は、赤松達明和尚の精励によって再建されたものです。入寺当初、境内には老朽化した木造の本堂が残っている状態であったと伝えられています。さらに、入寺後まもなく、何者かによって建物が破壊されるという事件も発生しました。そうした困難のなか、赤松和尚とそのご夫人が力を合わせて復興に着手し、以下のような建築が行われました。昭和38年(1963)庫裏(2024年=令和6年に解体)を建立、昭和42年(1967)本堂および正面の書院を新築。工事は新高の建設業者「今川組」によって施工されました。新しい本堂の落慶法要には、多くの地域住民が参列し、盛大に営まれました。なお、近隣に新高社会福祉会館が建設される以前は、この本堂で葬儀も執り行われていたそうです。また、境内に建つ和宝塔の裏面には、次のような銘が刻まれています。
福泉寺再興を機に一切衆生悉皆和平を祈願してこの碑を建つ
さらに、平成6年(1994)には伽藍の再整備とご本尊の修繕も行われ、寺院の整備が一層進められました。赤松和尚はその後、黄檗宗務本院の宗務総長を2期(10年)にわたり歴任され、平成20年(2008)11月、大本山塔頭の宝蔵院にて遷化されました。
現在の兼務住職は服部潤承和尚ですが、実際には赤松和尚のご夫人が平成27年(2015)まで坊守として寺を支え続けられました。
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