寺院案内



●寺院概要

 宝珠山福泉寺は、大阪市淀川区新高に所在する黄檗宗の寺院です。享保3年(1718)、萬谷和尚によって再興され、黄檗宗東林派下の高僧 梅嶺道雪禅師を勧請開山として仰ぎます。
 福泉寺の歴史は、江戸時代に黄檗宗が全国へ教線を広げた歩みと深く結びついています。とりわけ、隠元隆g禅師―大眉性善禅師―梅嶺道雪禅師へと受け継がれた東林派下の法脈に属し、大阪地域における黄檗宗の法灯を今日まで伝えてきました。
 寺伝や各種史料によれば、福泉寺は当初「福泉庵」と称され、自敬寺との深い法縁のもと護持されてきました。明治維新後の廃仏毀釈や戦災、住職不在の時期など幾多の困難を経験しながらも、歴代住職や地域の人々の尽力によって法灯が守られ、現在に至っています。
 本堂には阿弥陀如来坐像を中心として、如意輪観音菩薩坐像および開山梅嶺道雪禅師坐像をお祀りしております。また、史料によっては如意輪観音菩薩や地蔵菩薩を本尊とする記録も残されており、福泉寺の歴史を考える上で貴重な手がかりとなっています。
 本ページでは、黄檗宗の歴史的背景、福泉寺のご本尊と寺宝、開山梅嶺道雪禅師の事績、寺院の沿革ならびに歴代住職について、現存する史料や伝承をもとにご紹介いたします。


●宗派

 黄檗宗は、江戸時代の承応3年(1654年)に明の高僧 隠元隆g禅師によって我が国にもたらされました。日本仏教における伝統14宗派の中では最も新しく、禅宗の一派として坐禅を根幹に据えた教えを伝えております。
 黄檗宗の大本山は、寛文元年(1661年)に創建された京都宇治の黄檗山萬福寺です。この寺院は、徳川幕府第4代将軍 徳川家綱公が大檀越(だいだんのつ)となり、幕府の庇護のもと創建された、格式ある禅宗寺院です。
 黄檗宗が日本に伝来した当時、すでに寺請制度(いわゆる檀家制度)が確立しており、多くの民衆が近隣の既存宗派の寺院に所属していました。そのため、新たに伝来した黄檗宗が教線を拡大することは困難でした。
 そこで黄檗宗は、大名・旗本・代官などの武家層や幕府の信任を得ることで、彼らの菩提寺として寺院を開山する方策をとりました。たとえば、柳川藩の福厳寺、長州藩の東光寺、津山藩の千年寺、狭山藩の法雲寺、大和郡山藩の発志院・王龍寺・永慶寺、仙台藩の大年寺などがその代表例です。これら中核寺院を中心に、周辺に小規模な黄檗寺院が形成されていきました。
 そうした小寺院の多くは、元々は檀家を持たず、既に廃寺となっていた古跡を「復興」する形で末寺とされました。これは黄檗宗があえて過去の仏跡を尊重する柔軟な姿勢の表れでもあります。
 黄檗宗の小寺院が全国に点在しているのは、このような歴史的背景によるものです。江戸時代には幕府や大名によって支えられてきたものの、明治維新によってその後ろ盾を失い、多くの寺院が自力での運営を余儀なくされました。また、明治初頭の廃仏毀釈運動や戦中戦後の動乱によって、一時的に住職を欠く荒廃した寺院も少なくありませんでした。
 こうした困難を乗り越えながら、現在に至るまで法燈を守り続けてきた黄檗宗の寺院は、全国でおよそ450ヶ寺に及びます。それぞれが規模は小さくとも、歴史を今に伝える貴重な宗教文化財であります。(参考:『近世黄檗宗末寺帳集成』)


●ご本尊・脇侍

 福泉寺の本堂正面には、阿弥陀如来坐像を安置しております。右手には如意輪観音菩薩坐像、左手には福泉寺の開山である梅嶺道雪禅師坐像をお祀りしています。
 なお、真言宗では「大日如来」、浄土宗では「阿弥陀如来」といったように、宗派によって本尊が定められていますが、禅宗においては、各寺院の由緒や縁によってご本尊が異なることが一般的です。仏像は、一切衆生が本来持つ「仏心」の象徴であり、ご縁のある仏様を敬い、お祀りすることに意義があります。

■本当のご本尊は如意輪観音菩薩もしくは地蔵菩薩か?

 福泉寺のご本尊については、資料により異なる記録が残されています。 たとえば、明治37年(1904年)に提出された『明細取調御届ケ』(黄檗文化研究所所蔵)や『法人登記簿』には、「如意輪観音菩薩」が本尊と明記されています。 現在、中央には「阿弥陀如来坐像」をお祀りしておりますが、この仏像がいつ、どのような経緯で福泉寺に迎えられたのか、はっきりとした記録は残っていません。ただし、仏教における尊格上、如来は菩薩より上位とされるため、阿弥陀如来を中心にお祀りしているものと考えられます。 また、先代・赤松和尚のご長男によると、入寺された時点ですでに阿弥陀如来が安置されていたとのことです。仏像の由来をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせいただければ幸いです。
 さらに、明治12年大阪府調の表書きのある『摂津國西成郡寺院明細帳』や『大阪府全志』では、「地蔵菩薩」を本尊として記録しているものもあります。現在、福泉寺の墓所中央には石造の地蔵菩薩像がお祀りされており、「撫で仏」や「水かけ地蔵」として親しまれていますが、お参りされる方によって由来はバラバラです。この地蔵菩薩がかつての本尊であった可能性も考えられます。
 加えて、本堂中央のご本尊の真下には、「矢田地蔵尊像」が安置されています。黒塗りの厨子に納められ、炎に包まれた迫力あるお姿をされています。厨子の裏には「明治元辰年十月十一日入佛」と記されており、明治元年(1868年)に安置されたことが分かります。厨子には続けて「十一面観音 矢田地蔵尊 吉祥女天」との記載がありますが、十一面観音と吉祥女天は現存していません。この矢田地蔵尊像がかつての本尊であったかどうかについては、現在のところ確証はありません。ただ、明治12年の大阪府による調査と年代が近いことから、何らかの関係がある可能性も考えられます

■梅嶺道雪禅師と東林派下

 梅嶺道雪禅師(1641年〜1717年)は、福泉寺の勧請開山(かんじょうかいさん)です。
 ご出身は肥前国小城郡(現在の佐賀県小城市 従来「備前国」と記していましたが正しくは「肥前国小城郡」でした。)で、7歳の頃より、郡内の臨済宗広徳院にて梅隣禅師のもとで修学されました。明暦3年(1657年)、17歳のときに同郡西郷の三岳寺にて出家されます。
 その後、万治2年(1659年)、京都・洛北の黄檗宗寺院である定光庵に入られ、潮音道海禅師らとともに修行を重ねられました。
 寛文3年(1663年)には、大徳寺真珠庵主とともに、黄檗宗の高祖である即非如一禅師に参じ、その際の問答がご縁となり、「梅嶺」の法号を賜り、弟子となられました。
 さらに寛文十三年(1673年)には、大眉性善禅師より印可と源流を授かり、本山塔頭の東林院住持や松隠堂塔主などを歴任されました。
 その後は高徳の禅僧として広く知られ、享保2年(1717年)6月2日に遷化されるまでの間に、全国で20余か寺の開山を請われるなど大きな足跡を残されました。大眉禅師を派祖としてその弟子である梅嶺禅師が教線を広げた法系を東林派下といいます。
 文華殿主管の田中智誠和尚が著した「東林派下梅嶺禅師湖東三ケ道場歴代表と客膝軒祐老行業記並びに東林派下寺院表」には、「隠元、大眉、梅嶺と続く東林派下は、梅嶺とその門人によって、佐賀、滋賀、大阪、愛知、岐阜、三重、兵庫、北海道と各地にひろがり、その帰依者の多くは商人層であった」と記されています。
 また、同書に収録された「東林派下寺院表」によれば、東林派下の寺院は53か寺(廃寺を含む)を数えます。そのうち大半は滋賀(近江)に集中しており、正宗寺・正瑞寺・福寿寺を中心として23か寺が建立されています。また、大阪(摂津)には自敬菴・福泉菴・正徳寺・二柳寺(現廃寺)の4か寺、三重(伊勢)には、現在は廃寺となった法泉寺を中心として6か寺が確認されます。
 このような寺院分布からみると、東林派下は全国へ広がりながらも、とりわけ近江と伊勢の両地域と深い関わりを有していたことがうかがえます。また、帰依者の多くが商人層であったことも東林派下の重要な特色の一つです。
 その具体例として、近江の福寿寺様の由緒書には次のように記されています。【延宝の復興】には「延宝八年(1680)伴是閑、西川、村地、川端、松本、勝見の諸氏、当地の安倍、福永、岩倉町内の諸檀徒らが黄檗の梅嶺禅師を迎えて中興し、領主坂井氏父子もその興造を助けた。」とあります。また【伴紹雲居士と伴是閑居士】には「梅嶺禅師に嗣法した居士の中で、特にこの両居士は、当山再興の大檀越と言うべきであろう。前物は八幡の豪商、伴伝兵資春、元興とおくり名し、後者も同じく伴庄右衛門、是閑浄伝と言った。禅師に師事して造詣深く、福寿寺畔に、それぞれ、長コ庵、汲江庵の、二境内子院を建立して、ここを参禅弁道の居と定め、寺観復興の爲には財を惜しまれなかった。」と記されています。
 この記録は、田中智誠和尚が「東林派下の帰依者の多くは商人層であった」という見解を裏付ける具体的な事例として注目されます。特に、「八幡の豪商」と明記される伴伝兵衛資春(伴紹雲居士)や伴庄右衛門(伴是閑居士)は、梅嶺禅師に深く帰依し、子院の建立や寺観復興のために多大な財的支援を行ったことが記されています。
 一般に黄檗宗は、大名や武士層からの帰依を受けたことは既に述べましたが、この福寿寺の事例からは、東林派下においては近江商人をはじめとする商人層が重要な檀越・支援者となり、寺院の復興や教線拡大を支えていたことがうかがえます。中心となった商人層については、近江を基盤とする近江商人や、伊勢国多気郡相可を本拠とした相可商人が重要な役割を果たしていた可能性が高いと考えられます。さらに、大阪(摂津)にも東林派下の寺院が4か寺存在することから、大阪商人との人的・経済的なつながりも想定されますが、この点については今後さらに検討を要します。
 このように、東林派下は、梅嶺禅師とその門人たちによって各地へ展開され、単なる法脈の継承にとどまらず、近世の商業ネットワークとも深く結びつきながら発展したことに大きな特色があるといえるでしょう。
 梅嶺禅師の遺偈には、「七十又七年 而今唱寂滅 不念乾屎ケツ 説甚弥陀佛」とあります。また、遺命により遺骨は散骨され、爪髪は伊勢の法泉寺に納められました。世寿77歳。 (参考:『黄檗文化人名事典』、田中智誠「東林派下梅嶺禅師湖東三ケ道場歴代表と客膝軒祐老行業記並びに東林派下寺院表」『黄檗文化』第139号、渡邉正裕「黄檗東林梅嶺禅師の人材育成と地域創生【伊勢多気相可】」『黄檗文化』141号、海住春彌『櫛田川と多気町文芸史』)



 現在、伊勢の法泉寺は廃寺となり、その跡地は天啓公園として整備されています。しかし、寺院の伽藍は現在も残されており、本堂内部には爪髪塔が現存しています。爪髪塔は内陣に埋め込まれた形で保存されており、往時の法泉寺の姿を今に伝える貴重な遺構となっています。海住春彌『櫛田川と多気町文芸史』には「梅嶺の墓としては、法泉寺本堂内の奥に、その爪髪が埋められている。その上に篆書で、「開山老和尚爪髪塔」と堀った中国式の暮碑が建っている。高さが九五センチメートルは、横が五八センチメートル、奥行一五センチメートル。悟心(法泉寺六代)の書と伝えられる。」と記されています。

 

 なお、上記3枚の写真につきましては、多気郷土資料館様よりご提供いただきました。貴重な資料をご提供くださった同館に、ここに深く感謝申し上げます。

●沿革

■開創時期

 福泉寺の開創については、『明細取調御届ケ』(明治37年〔1904年〕)に「享保三年拾二月四日開山梅嶺和尚創立ス」との記録があります。 また、『大阪府全志』巻之三(大正11〔1922年〕年発行)では、「享保年間曉雲和尚の徒弟萬谷和尚、十方の信施を以て再建し、祖翁梅嶺大和尚を請じて中興の開山とせり。」と記されています。 すなわち、享保3年(1718年)、萬谷和尚が諸国を行脚して再建費用を募り、荒廃していた寺を復興したとされます。そして、自身を開山とせず、既に遷化していた大師匠 梅嶺禅師を「勧請開山」としてお迎えしたということです。
 『攝津國本派世代表』により福泉寺の法系をみると、梅嶺禅師が開山、暁雲禅師が2代、萬谷和尚が3代にあたります。萬谷和尚は福泉寺を再興した功績により中興開山と位置付けられています。現在も本堂には、梅嶺禅師と萬谷和尚の位牌が大切にお祀りされています。
 また、近隣の黄檗寺院である自敬寺(庵)も同時代の享保元年(1716年)に再興されています。自敬寺の開山である暁雲禅師は、福泉寺の2代住持でもあり、梅嶺禅師の直弟子、そして萬谷和尚の師匠にあたります。暁雲禅師は近江国の正宗寺第5代住職、同国正瑞寺4代住職を務めた高僧であり、『法泉開山梅嶺雪公和尚行業記』を著して梅嶺禅師の事績を後世に伝えました。このように、暁雲禅師と萬谷和尚は師弟として力を合わせ、自敬寺と福泉寺の再興を通じて、この地域における黄檗宗の布教と教化に大きな役割を果たしました。


■寺号「福泉庵」から「福泉寺」へ

 創建当初は、「青雲山 福泉庵(ふくせんあん)」という寺号で呼ばれておりました。 その後、昭和に入ってから「宝珠山 福泉寺」へと改称されたと考えられます。
 大正期に編纂された『西成郡史』や『大阪府全志』巻之三にも、依然として「福泉庵」の名称が見られます。さらに、明治12年および昭和6年の台帳にも「福泉菴」という表記が残っております。 「福泉寺」という名称が正式に使用されるようになったのは、昭和27(1952)年9月1日に「宗教法人福泉寺の規則」が大阪府より認証された頃までには確定していたと推測されます。
 また、明治37年の記録には「本寺摂津国自敬庵末福泉庵」とあり、当時は西三国にあった自敬庵(現在の自敬寺)の末寺であったことがわかります。両寺の住職の法系は、いずれも東林派下に属しています。


■創建当初の所在地

 創建時の所在地についても『明細取調御届ケ』に記載があり、「摂津国西成郡神津村大字新在家」とされています。これは、現在の大阪市淀川区新高(にいたか)にあたります。
 「摂津国」は、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部に相当します。「西成郡」は、現在の西成区とは異なり、江戸期には大阪平野の西半分から北の神崎川までを含む広い地域を指していました。「神津村」は、明治22(1889)年、今里・堀・木川・三津屋・野中・新在家などの村が合併して成立した行政単位で、「神崎川の『神』」と「中津川(新淀川)の『津』」から名付けられました。現在も「神津小学校」や「神津神社」などにその名が残ります。
 その後、大正11(1922)年には「神津町」となり、さらに大正14(1925)年には大阪市に編入され「東淀川区新在家町」へと改称されます。そして現在の「新高町」となりました。
 新在家(現新高)は「領主や庄屋を持たず、百姓が統治していた自立的な村だった」と伝える古老もいますが、江戸時代の公文書を確認すると、それは正確ではありません。新在家は江戸初期の『摂津国絵図』(慶長10年)に村名と石高が明記されており、また、代官所に提出された『村高反別帳』には庄屋・年寄・百姓代といった村役人の署名も記録されています。つまり、幕府の代官所により統治されていた一般的な直轄領村であったと考えられます。記録によると宝永5年(1708)間部越前守領地、享保2年(1717)幕領 代官支配、天明8年(1788) 幕領 戸田周防守預所、寛政2年(1790)幕領 松平泉守預所、寛政6年(1794)幕領 代官支配、文化14年(1817)幕領 永井飛騨守預所、天保13年(1842)幕領 代官支配、明治元年(1868)御料 櫻井遠江守九鬼長門守取締とされます。
 これらの記録からは、新在家村が江戸時代を通じて幕府の統治機構のもとに置かれた村であったことがうかがえます。また、明治維新後には兵庫裁判所、司農局、摂津県、兵庫県といった機関の所管を経て、最終的に大阪府に所属しました。福泉寺(庵)は、このような歴史を有する新在家の地に創建されました。『明細取調御届ケ』に記された創建当初の所在地は、福泉寺の歴史をたどるうえで重要な史料であり、その出発点を今に伝えるものといえます。


■明治の住職

 明治維新後、日本各地では廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波が押し寄せ、多くの寺院が取り潰されたり、無住となって荒廃していきました。そうした逆境の中にあっても、福泉庵(福泉寺)を守り続けた住職が、第10代大橋愍定(みんじょう)和尚です。
 愍定和尚は、天保13年(1842)4月11日生まれ。安政元年(1854)4月8日、親寺である自敬寺(庵)の多々良観輪禅師のもとで得度を受け、明治6年(1873)7月5日に福泉庵の住職に任命されました。
 多々良観輪禅師は、明治18年より第40代大本山萬福寺住職を務めた高僧であり、その法系は福泉寺と同じ東林派下に属していました。また、自敬寺(庵)や、近江の正瑞寺、正宗寺などの住職も歴任しています。愍定和尚は、観輪禅師が自敬寺(庵)に住していた頃に縁を結び師事し、得度を受けたものと考えられます。
 その後、明治23年(1890)4月25日には、『寺籍』などの関係書類を本山に提出しています。
 愍定和尚の後は、以下の通り、近隣の黄檗宗寺院の住職方が兼務住職として福泉庵を支えました。杉本亀山和尚(高須より)、梅谷龍海和尚(明治34年〔1902〕より)、浅野眞成和尚(明治45年〔1912〕より)。
 特に浅野眞成和尚は、大阪市内(当時の西成郡北野村)に存在した「善通寺」の住職でもあり、その記録は大本山の『寺班・住職表』にも見られます。北野村は福泉庵から比較的近距離にあり、地域的にも往来可能な範囲にあるため、近隣寺院同士による兼務体制の実態をよく示しています。『攝津國本派世代表』によれば、善通寺の16代住職・梅ー通香禅師は、福泉寺の8代住職も務めており、両寺院の間には人的・法系的なつながりが存在していました。善通寺は後に大火により焼失し廃寺となりましたが、現在でも歴代住職や檀信徒の墓石は、自敬寺および服部霊園に整理・安置されています。これにより、寺院としての活動は終えていても、その歴史的連続性は周辺寺院に引き継がれています。さらに、善通寺の開山は木庵禅師の弟子である鉄禅道広禅師です。鉄禅禅師は元禄4年、伊予宇和島藩主伊達宗利公の請願により大通寺(現廃寺)の開山となり、また毛利吉広公の請願により祥龍寺の開山も務めました。その後、元禄10年に善通寺の開山となり、『参禅要語』を著しています。
 江戸時代末から明治維新にかけて、明治政府の寺院整理政策や廃仏毀釈の影響により、多くの寺院が存続の危機に立たされました。しかし福泉庵においては、第10代住職大橋愍定和尚による護持、自敬寺・善通寺との師弟関係・法縁・兼務住職体制といった複数の支えによって、寺院の継続が維持されました。その結果、小さな庵であっても、複数の僧侶と寺院の連携によって護持され続けたことが、記録から明らかになります。


■昭和の住職

 昭和時代の福泉寺住職の系譜については、黄檗宗務本院に提出された公式書類からたどることができます。
 昭和2年(1927)自敬寺の服部承董和尚が兼務住職に就任。昭和18年(1943)鈴鹿高久和尚が住職となるも、第二次世界大戦により戦死。在職はわずか5年に留まりました。
 昭和27年(1952)服部祖承和尚が住職に就任。
 昭和36年(1961)赤松達明和尚(先代住職)が入寺。特に、鈴鹿和尚が戦争により命を落とされたことは、福泉寺の歴史においても深い傷跡を残しました。
 その後、昭和後期には赤松達明和尚が住職として法灯を継がれました。※新資料発見により令和7年加筆


■謎の拝み屋さん 〜貝島浄妙という人物〜

 赤松達明和尚の前任住職は、公式には服部祖承和尚と記録されています。しかし、戦中から戦後にかけて、貝島浄妙(かいじま じょうみょう)という老婆が孫とともに本堂に寓居していたという話が、新高の地域に伝わっています。
 現在も本堂には彼女の御遺影が残されており、そこには有髪で、真言宗の輪袈裟(三つ巴紋)を首にかけた姿が写されています。黄檗宗本山には僧籍記録がなく、正式な僧侶ではなかったものと推察されますが、地域では「拝み屋さん」として親しまれていたようです。 彼女は弘法大師像を祀り、「大坂新高大師講」なる団体を組織し、地域で活動していたと伝わっています。「超能力が使えた」という逸話も残っており、特に桃の葉を貼っておまじないを施すなどの信仰的行為を行っていたとされます。
 赤松和尚の長男さんによれば、「大坂新高大師講」は
 実際にはご詠歌の会であり、貝島浄妙さんが亡くなった後もしばらく活動が続き、定期的に練習を重ね、年に一度は高野山のご詠歌大会にも参加していたとのことです。

御遺影の裏には、以下のような紙が貼られています:

 清凉院眞室淨妙大姉 昭和三十六年八月没
 この方は戦災に会って堺の方からたこの地蔵さんをしよてにげてこられ、村の人がここにすみなさいといってあげた人で、私達はそれを信じて来ました。いつから住んでおられたかは存じません。高須の和尚さんからも何も聞いておりません。孫さんがおられますが、養子に行かれて音信がありません。

 この方が実際にどのような人物であったのか、より詳しくご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示いただければと存じます。


■福泉寺再興

 現在の福泉寺の伽藍(がらん)は、赤松達明和尚の精励によって再建されたものです。入寺当初、境内には老朽化した木造の本堂が残っている状態であったと伝えられています。さらに、入寺後まもなく、何者かによって建物が破壊されるという事件も発生しました。そうした困難のなか、赤松和尚とそのご夫人が力を合わせて復興に着手し、以下のような建築が行われました。昭和38年(1963)庫裏(2024年=令和6年に解体)を建立、昭和42年(1967)本堂および正面の書院を新築。工事は新高の建設業者「今川組」によって施工されました。新しい本堂の落慶法要には、多くの地域住民が参列し、盛大に営まれました。なお、近隣に新高社会福祉会館が建設される以前は、この本堂で葬儀も執り行われていたそうです。また、境内に建つ和宝塔の裏面には、次のような銘が刻まれています。

 福泉寺再興を機に一切衆生悉皆和平を祈願してこの碑を建つ

 さらに、平成6年(1994)には伽藍の再整備とご本尊の修繕も行われ、寺院の整備が一層進められました。赤松和尚はその後、黄檗宗務本院の宗務総長を2期(10年)にわたり歴任され、平成20年(2008)11月、大本山塔頭の宝蔵院にて遷化されました。 現在の兼務住職は服部潤承和尚ですが、実際には赤松和尚のご夫人が平成27年(2015)まで坊守として寺を支え続けられました。


●福泉寺の歴代住職

 開山  梅嶺道雪 享保2(1717)年6月2日遷化

 第2代(自敬寺)  暁雲元岫 享保10(1725)年5月20日遷化

 第3代  萬谷  流(應) 享保8(1723)年3月16日遷化

 第4代  覺禅  全 安永2(1773)年3月12日遷化

 第5代  袒林  燈 安永6(1777)年3月16日遷化

 第6代  独産如(行)稚 寛政8(1796)年4月6日遷化

 第7代  来宗眞(圓)活 天保14(1844)年2月14日遷化

 第8代  梅ー通香 文政9年11月15日法嗣

 第9代  黙要通斯 天保13年12月8日法嗣

 第10代  (大橋)愍定弘信 明治6(1873)年7月5日〜

 兼務(自敬寺)  (杉本)亀山圓水 〜明治34年4月13日

 第11代 梅谷龍海 明治34年4月13日〜45年6月18日退山

 兼務(善通寺) (浅野)眞成圓器 明治45年6月18日〜昭和2年2月18日退山

 兼務(自敬寺) (服部)承董仁奉 昭和2年2月18日〜昭和18年8月31日退山

 第12代 (鈴鹿)高久通心 昭和18年8月31日〜23年1月26日遷化(戦死)

 兼務  (服部)承仁廣道 昭和23年1月26日〜26年10月4日退山

 第13代 (服部)祖承廣傳 昭和27年7月5日〜36年12月17日退山

 第14代 赤松達明 昭和36年12月17日〜平成20年11月21日遷化



■歴代住職の考察

 10代愍定弘信(大橋愍定)和尚までは、黄檗文化研究所所蔵『攝津國本派世代表』を参照し、代、道号・戒、寂年を表記しております。それ以降につきましては、代、(苗字)・道号・戒号、入山・退山もしくは嗣法年を表記しております。なお、11代梅谷龍海和尚は、『明細取調御届ケ』に住職として申請されていることが確認できます。以後の代につきましては、黄檗宗宗務本院への提出書類を主たる典拠として整理しております。また、兼務住職を世代数に含めるか否かによって、世代数には異同が生じてまいります。
 一方、本山において黄檗宗僧侶の記録として編纂された『黄檗宗鑑録』を参照すると、2代曉雲和尚から、龍峰廣珠和尚(3代自敬寺住職【服部霊園】)、桂芳徳昌和尚を経て、6代独産和尚へと嗣法が継承されていることが確認できます。さらに、6代独産和尚から7代来宗和尚へ、7代来宗和尚からは8代梅ー和尚および9代黙要和尚(7代自敬寺住職【服部霊園】)へと、それぞれ嗣法されております。
 また、12代鈴鹿高久和尚は、自敬寺住職であり福泉寺兼務住職でもあった亀山和尚の法嗣であることが判明しております。さらに、亀山和尚は多々良観輪禅師の法嗣であり、眞成和尚もまた観輪禅師の法嗣です。このことから、明治以降の福泉寺は、多々良観輪禅師の法系に連なる弟子たちによって住職あるいは兼務住職が務められていたことが確認できます。
 黄檗宗では、法系字によって法脈を承伝し、自らが何世の児孫に当たるかを明らかにすることができます。つまり、「□□▲□」の▲が法系字となります。一般的な法系字の並びは「性・道・元・浄・衍・如・眞・通・弘・仁・廣・智・明」とされています。しかし、東林派下では例外的に「性・道・元・廣・コ・行・圓・融・祖・禅・克・紹・正」という法系字が用いられます。ただし、東林派下の和尚であっても通例の法系字を用いる場合があり、法系の判別を一層複雑なものにしております。今後の史料調査によって解明が期待されるところです。


■歴代和尚墓

 福泉寺には、歴代和尚のものと伝えられる卵塔4基が現存しています。いずれも基壇や台石を欠き、現在は竿石のみが残存する状態です。
 令和8年4月より歴代和尚墓塔の調査を実施し、拓本を採取して文字の確認を行いました。便宜上、正面から縦に並ぶ4基の墓石を、前方より@からCとします。
 なお、@とBは砂岩製、AとCは花崗岩製(北木石と思われます)です。全体的に風化が著しく、判読困難な箇所が多くあります。なお「〇」は判読不能文字を示します。

 @の墓石 「當庵五代覚禅徳〇禅〇」

  上記『攝津國本派世代表』では覚禅和尚を第4代としているため、世代数に齟齬がみられます。
 裏面には「江州蒲生郡上羽田村 〇利兵衛 〇嘉兵衛」とあります。上羽田村は江戸時代伊達藩の飛地でした。つまり、現在は滋賀県東近江市上羽田町にあたります。蒲生郡の二人の信者が覚禅和尚のために寄贈したという意味となります。なぜ大阪から遠く離れた上羽田村の信者が寄贈したかは、おそらく近江には多くの黄檗寺院が建立されており、中でも東林派下の寺院が多く、黄檗寺院と近江商人との関係が論文でも示されている通り、そのような関係で寄贈されたのではないかと考えられる。

 Aの墓石

 拓本を採取したものの、文字を十分に確認することができず、現段階では判読不能です。

 Bの墓石 「福泉四代天倪老」

 正面下部が大きく剥離しているものの、「福泉四代天倪老」の文字を確認することができました。
 『攝津國本派世代表』には該当する記載が見られませんが、『黄檗宗鑑録』には、第2代暁雲和尚の弟子であり、自敬寺第2世住職を務めた天倪廣和和尚の名が確認できます。墓石の銘文にある「天倪老」はこの天倪廣和和尚を指すものと考えられます。
 また「福泉四代」と刻まれていることから、天倪廣和和尚は福泉寺第4代住持であったことがうかがえます。自敬寺住職を務めた後に福泉寺へ入寺し、当地で遷化したために墓塔が建立されたものと推測されます。

 Cの墓石 「當院中興萬谷應和尚也」

 後述する位牌の記載とも一致することから、福泉寺中興第3代萬谷應和尚の墓石であることが判明しました。

 以上、4基の卵塔が残されていますが、そのうち判読不能なものもあり、また、他の歴代和尚の墓石がどのような経緯で失われたのかは明らかではありません。第1代開山梅嶺禅師については散骨のため墓石が存在せず、第2代暁雲禅師、兼務眞成禅師については自敬寺内に、第9代黙要禅師、兼務亀山禅師については服部霊園に墓所が存在することが確認できております。
 一般に、昔の禅僧は一か所に定住せず行脚を重ねることが多く、また他寺へ住職として招請されることも少なくありませんでした。そのため、遷化した寺院に墓を建立することが通例であり、第9代黙要禅師のように、福泉寺ではなく他所に墓所が建立されたため、福泉寺境内に墓石が残されなかった可能性も考えられます。また、現存する砂岩製の墓石は風化が著しく、剥離が進行しているものも見受けられることから、かつて存在した墓石が自然劣化によって失われた可能性も否定できません。さらに、新高地区は神崎川に近く、過去の河川氾濫による流失や、戦時中の空襲等による被害を受けた可能性も考えられますが、現時点ではこれを裏付ける史料は確認できておりません。加えて、卵塔の銘文と『攝津國本派世代表』の記載との間には一部齟齬が認められます。そのため、今後は関連史料をさらに精査し、史料相互の信頼性や成立事情を踏まえ、いずれの記録を基礎資料として位置付けるべきかについても検討を進める必要があると考えています。
 この度、歴代和尚墓塔の調査に際しましては、浜屋豊中店の岡田尚貴様より格別の御高配と御協力を賜りました。ここに謹んで御芳情に対し深く感謝申し上げます。


■歴代和尚位牌

 本堂には、歴代和尚に関わるものと考えられる位牌が4体現存しています。表裏に世代僧名、遷化年月日などが記されています。

@梅嶺禅師位牌           

表 臨濟正傳三十四世福泉菴開山梅嶺雪大和尚覺位
裏 享保二丁酉年六月二日

 福泉寺の勧請開山である梅嶺雪和尚の位牌です。表面には「福泉菴開山」とあり、開山として顕彰されていたことがわかります。

A萬谷禅師位牌               
表 臨濟正宗三十六世當院中興第三代萬谷應和尚覺位
裏 享保八癸卯年三月十六日

 福泉寺中興 第3代萬谷應和尚の位牌です。表面には「當院中興第三代」と明記されております。この記載は、境内に現存する卵塔Cの銘文「當院中興萬谷應和尚也」とも一致しており、位牌と墓石の双方からその存在を確認することができます。

B鐡山禅師位牌               
表 臨濟正傳三十六鐡山崢
裏 延享元甲子年二月十七日化 施主孤峰百拝

 鐡山禅師の位牌です。しかしながら、「鐡山崢」については『攝津國本派世代表』にその名を確認することができませんでした。一方、『黄檗宗鑑録』には「鐡山廣エ」という僧名が見られ、梅嶺禅師の弟子である雲峰元冲禅師の法弟子として記載されています。
 位牌に記された「崢(そう)」と『黄檗宗鑑録』の「エ(こう)」とでは一文字の相違がありますが、いずれも山偏を持ち、「山が高く険しいさま」を表す類似した意味の漢字であることから、異体字的に用いられた可能性が考えられます。
 また、位牌裏面には施主として「孤峰」の名が記されています。『黄檗宗鑑録』によれば、鐡山廣エの弟子に「孤峰コ白」という僧が確認できることから、この位牌は鐡山廣エ禅師のものである可能性が極めて高いと考えられます。
 さらに、この位牌の年代は、第3代萬谷和尚の遷化からおよそ二十年後にあたり、福泉寺の歴代住持の記録に空白がみられる時期と重なります。そのため、鐡山廣エが萬谷和尚と次代住持との間に一時的に福泉寺に住した僧であった可能性や、位牌を建立した弟子の孤峰コ白が当寺に住していた可能性も考えられます。鐡山廣エは梅嶺禅師の孫弟子にあたることから、その推定には一定の妥当性がありますが、現時点ではこれを裏付ける直接的な史料は確認されていません。今後のさらなる史料調査が待たれるところです。

C三僧連名位牌 ※令和8年6月10日追記
表(左) 智光圓明禅尼
表(中) 東照月耕明大和尚
表(右) 福泉袒林行宗禅座

裏 智 正月十一日
裏 東 五月念六日
裏 福 三月十六日

 三名の僧名が記された連名位牌です。他の歴代和尚位牌と比較すると小型であり、さらに三名が一体にまとめられているという特徴があります。また、黄檗宗僧侶の法名としては一般的な形式と異なる部分も見受けられることから、当初は福泉寺とは直接関係のない位牌が何らかの事情によって伝来した可能性も考えられました。
 しかし、改めて精査したところ、「福泉袒林行宗禅座」の「福泉」を寺号とみることで、「袒林行宗」という僧名を読み取ることができます。『攝津國本派世代表』には第5代として「袒林燈」の名が見られ、さらに位牌裏面に記された忌日が「三月十六日」で一致することから、同一人物である可能性が高いと考えられます。
 また、中央の「東照月耕明大和尚」については、「東照」が近江国蒲生郡竜王町に所在する東林派下の黄檗寺院を示します。『黄檗宗鑑録』には「月畊コ明」の名が確認でき、「畊」は「耕」の異体字として用いられることから、本位牌の人物に比定できる可能性があります。さらに、『黄檗宗鑑録』によれば、月畊コ明和尚は前述の天倪廣和和尚(Bの墓石)の法嗣であることが確認できます。また、明治12年に本山に提出された『世代順序表』においては、8代目に「月耕明」の名が列していることから同一人物と考えられます。
 一方、「智光圓明禅尼」については、現時点では詳細を確認することができておらず、引き続き調査を進めております。
 なお、本位牌と『攝津國本派世代表』との比較を行うと、僧名や戒号の表記に若干の異同が認められます。また、東林派下における法系字の扱いについても、他の史料との比較検討を要する点が見受けられます。そのため、現段階では各史料の成立事情や記載内容を慎重に照合しながら検討を進める必要があると考えています。
 三名が一体の位牌にまとめられた理由については明らかではありませんが、師資相承など何らかの関係性を踏まえて後世に合祀された可能性や、建立当時の寺院事情を反映した結果である可能性も考えられます。ただし、これらを裏付ける史料は現時点では確認できておらず、今後の調査課題といえます。


※当ウェブサイトに掲載されている宝珠山福泉寺の歴史、歴代住職の法系、および境内地・墓所に関する記録は、黄檗宗務本院所蔵史料および公式な登記情報に基づく宗教法人福泉寺の正当な権利および由緒を証明するものです。